「可哀想」を考える。
「可哀想」
意味:弱い立場にあるものに対して同情を寄せ、その不幸な状況から救ってやりたいと思うさま。
人はよく「可哀想」という言葉を口にすると思います。
それは私自身も含めての話です。
それで、改めて意味を調べてみたら、このような意味でした。
そして、思ったのは、「あぁ、その言葉を口にする時点で、そう思っている対象のことを下に見てるんだな私。
なんて傲慢なんだろう。」と。
私はいつも友人のSNSの投稿で考えさせられるます。
先日もこんな投稿を友人がしていました。
鹿が掛かってた。あと30分で猟師が来て鉄砲で撃つ。かわいそう。仕方ない。眼に映る色んな事に意味を持たせ、感情を生み出すのが人らしさだな。無関心も大切な選択肢の一つだと僕は思う。 pic.twitter.com/iD0fPLL5HB
— 田中一馬 但馬牛農家の精肉店・田中畜産 (@tanakakazuma) November 7, 2018
「鹿が掛かってた。あと30分で猟師が来て鉄砲で撃つ。かわいそう。仕方がない。
目に映る色んな事に意味を持たせ、感情を生み出すのが人らしさだな。無関心も大切な選択肢の一つだと僕は思う。」
家の近くに罠が仕掛けてあって、そこに野生の鹿が掛かったみたいで、そんな時の投稿なんですが・・・。
皆さんはこれを見てどう思いますか??
「可哀想」と思い、どうにか助けてあげてほしいと思いますか?
この友人は私が以前「牛飼い体験」に行ったところの友人です。
この友人の投稿はいつも注目されるのです。良くも悪くも・・・。
今回もこの投稿に対して何件かのコメントがあったのですがその内容は様々。
「共感」する方もいれば「反対」の意見もありました。
何を感じるかは人それぞれで自由だと思います。
しかし、それを意見として言葉に出すのであればもう少し考えなければいけないなと考えさせられました。
コメントの中に「野生の鹿は飼えないのか??」的なことが何件かありました。
それは可哀想だから飼えるのであれば飼って助けてほしいという意見です。
しかし、それはある意味「無責任」?「自分勝手」?ではないのかと思いました。
(どう表現したら正しいのかが分からないのですが・・・)
なぜそう思ったかというと、そのコメントを入れた人は「自分で飼う気」はないのだと思うからです。
じゃぁ、誰が飼うのか・・・。
牛飼いをしている友人にとって鹿は「害獣」なのに。
そんな友人に飼えというのでしょうか。
(そもそも野生の鹿を個人で飼育していいのかも私には分からないのですが。)
生き物を飼うって色々大変なことも沢山ありますよね。
犬や猫でも簡単ではないのに、野生の鹿ですよ・・・。
「大変」と感じることはその人その人によって違うかもしれませんが。
「お金」
「飼育場所」
「時間」等・・・
簡単に飼うと言えるものではないのではないかと思います。
特に野生動物なんて・・・。
生き物を危険だからと淘汰するのは「人の勝手だな」って感じることも私自身あります。
しかし、自分ではどうすることもできないことやする気もないことを他人に投げるのは違うのでは・・・と私は思っています。
動物病院にも「野良猫」を連れてくるかたもいます。
殆どの方は「自分が助けてあげたい」と思って連れてくる優しい方ばかりですが、
院長が開業したての頃は、拾ってきてそのまま預けていく方もいたそうです・・・。
私は「命」に関わったのなら最後まで関わらなくてはいけないと思っています。
だから、倒れた猫を見つけてもきっと手を出したりはしないです。
「冷たいんだね」って思われるかもしれないけど、その命に最後まで関わる覚悟ができなければ私は関わらないと思います。
それは今「目に見える事」だけではなく「その先の事」も考えていくことで
「可哀想」と思える動物が減るのではないかなと思っているからです。
目に映る色んな事に意味を持たせ、感情を生み出すのが人らしさだな。
と話す友人の言葉に「うんうん。」と頷きながら、様々な感情を生み出すからこそ人って面白いし、深いなと感じるけれども
その感情は押し付けるものではないなと思うのです。
「飼う」ってなんだろう・・・。そんなことも考えながら動物に関わっていこうと思いました。
さて、皆さんはどう思いますか?